防災・減災への指針 一人一話

2014年02月07日
民間団体としての支援活動―若手経済人の記憶と今後の課題―
塩釜青年会議所 監事
鈴木 貴資さん
塩釜青年会議所 元理事長
原田 尚樹さん
塩釜青年会議所 元理事長
今野 洋志さん

発災時の状況と行動

(聞き手)
 発災時の居場所と、その後の行動をお聞かせください。

(鈴木様)
私は、地震発生時、自分の経営する会社にいまして、社員を建物から出したり、支店の社員を本店に戻すように指示を出したりしていました。
情報源が車にあったテレビしかなく、そのテレビからは、気仙沼に津波が来ていると言っていました。
気仙沼は津波が襲来するのが、仙台新港より1時間早く、後にこちらにも10メートル程の津波が来るとわかりました。
そうした情報を取得できない方々は、状況が掴めていないため、避難をすべきなのか迷っていました。
震災当日は、夕方6時くらいに製油所が爆発し、社員を自宅に帰すべきかで迷いました。
仙石線は中野栄駅で止まり、道路も車と人で溢れて混乱状態でしたので、夜中の2時頃まで私と地元の人たちで交通誘導をしていました。
その時、住民の方には浸水地域を避けて自宅に帰る方法や場所などを案内しました。

(原田様)
私は、会社が仙台市若林区卸町にあり、発災時は仙台市内で仕事をしていました。物凄い揺れだったので、まず会社に戻ろうと移動していたのですが、道路は信号機が止まって渋滞していました。
結局、2時間ほど掛かって夕方に会社に着きましたが、その間、車のラジオからは、荒浜に200人ぐらいの遺体が上がったという情報が流れていました。
何を言っているのかよくわからず、現実の事とは思えませんでした。会社は酷い被害で、窓ガラスが割れたり窓のサッシが落ちたりして吹きさらしになっていました。大崎市鹿島台にも会社があり、そちらに移動したのですが、着いたのは夜11時頃だったと思います。その日は夜も遅かったので、ラジオを聞いていました。私は内陸部にいて津波を実際に見ていなかったので、実際に何が起きているのかもわかりませんでしたし、何も出来ませんでした。

(聞き手)
鹿島台に向かう途中の様子など、何か印象に残っている事はございますか。

(原田様)
橋に段差が生じていたり、マンホールから水が溢れていたりしていましたので、地震の威力を感じました。交通網も遮断されていましたので、私の経営する建設会社も、復旧に時間が掛かりそうだと感じました。鹿島台の方でも3日くらい携帯が繋がりませんでしたので、情報手段としてはラジオしかありませんでした。
塩釜青年会議所(塩釜JC)のメンバーとは2、3日くらい安否確認が出来ない状態でした。

(聞き手)
今野様の当時の状況を教えてください。

(今野様)
私は産業道路を仙台方面に向かって車で走っていまして、仙台新港の辺りで地震に遭いました。海沿いに居ては危ないと思ったので国道45号に出て、塩釜の会社に戻りました。
会社に着くと全員避難してしまって誰もいない状態でしたので、私はとりあえず近くの高台に避難しました。そして家族と合流して、徒歩で小学校へ子どもを迎えに行きました。

(聞き手)
小学校の様子はいかがでしたか。

(今野様)
小学校の子どもたちは全員体育館に集まっていて、近所の方たちがぞくぞくと避難してきていました。自宅は貞山堀沿いにあり浸水していましたので、子どもを連れて多賀城の親戚の家に避難して、1カ月くらい一緒に生活しました。

(聞き手)
会社の方も、気になったのではありませんか。

(今野様)
会社がどうなっているか心配で、行こうとしたのですが、途中で交通規制があって、近づけなくなってしまいました。
しかし、そこにたまたま社員が1人いたので話をしました。
聞いたところ、七ヶ浜に住んでいる母親と連絡が取れないというので、その社員を車に乗せて七ヶ浜の避難所を全て回りました。何の手掛かりもなく探していましたので大変でした。

(聞き手)
その頃はまだ名簿もなかったのでしょうか。

(今野様)
そうです。とりあえず皆さん集まっただけという様子でしたので、声を掛けて探していました。

(聞き手)
地震直後に、塩釜JCとしての活動はできましたか。

(今野様)
正直な事を申し上げますと、そのような状態ではありませんでした。当時、私は専務理事をしていましたので理事長のサポートをする立場にありましたが、メンバーに連絡出来たのは2、3日後でした。

給水活動と物資運搬で市を支援

(聞き手)
 塩釜JCとしての活動は、どのような経緯で開始したのですか。

(鈴木様)
震災翌日に、宮城JCの宮城ブロック協議会役員の方が宮城県庁の震災対策本部に配置され、そこに塩釜JCとして参入しました。
安否確認が出来たメンバーを集め、深夜2時まで作業しては、仮眠を取って、朝5時からまた活動を再開しました。
仙台市宮城野区は通水していると聞いたので、翌日の8時から9時には農業用のタンクを軽トラックに積んで給水活動を始めました。
その頃、文化センターと市役所には、給水のための長い列が出来ていました。

(聞き手)
給水活動は何名くらいでしていたのでしょうか。

(鈴木様)
給水車が2台で、5名で作業していました。
塩釜JCでは、初期の支援活動を、給水活動班と物資支援班の2系統に大別し、それぞれの支援活動にあたっていました。また、JCという組織は全国各地に696団体あり、様々な業種の方とネットワークを持っていますので、物資支援活動の際には、運搬用トラックの手配などをはじめ、ストック施設としての会社の確保に加え、作業員も必要数を配置するなど、様々なネットワークを駆使して、実際の任にあたることができました。

(聞き手)
物資の運搬と給水活動はどれくらい続いたのでしょうか。

(鈴木様)
5月から夏前くらいまでしていたと思います。

災害に対する備え

(聞き手)
 震災以前には、どのような対策をされていましたか。

(鈴木様)
宮城県沖地震が、非常に高い確率で来ると言われていましたので、会社と自宅に3日分の食料と備蓄品を置いていました。
ですが、震災で皆さん大変だろうと思いましたので、備蓄品は社員に渡して、自宅にあった分は、近隣の方に全部配りました。

(聞き手)
多賀城市の居住歴はどれくらいでしょうか。

(鈴木様)
仕事で東京や海外に行っていましたが、生まれも育ちもずっと多賀城市で、37年間住んでおります。

(聞き手)
今回の震災の他に、災害のご経験はございますか。

(鈴木様)
幼い頃に宮城県沖地震を経験しました。それから、昭和61年の8.5豪雨で水害にも遭っています。

(聞き手)
その時の経験は今回の震災で何か活かされましたか。

(鈴木様)
今までに経験してきたものとは規模が全く違いますので、活かされた事はありませんでした。

(聞き手)
それでは、親や周りの方から伝承や教訓などは何か聞いていましたか。

(鈴木様)
七北田川と砂押川が決壊したら多賀城市は危ないという話を聞いていまして、気にはしていましたが、特に対策は出来ていませんでした。

(聞き手)
震災前の避難訓練備蓄といった備えについて具体的にお話し頂けないでしょうか。

(鈴木様)
災害用の備蓄は一通りリュックに入れていましたし、会社の避難訓練では、安全な避難場所を指定し、そこに避難するように話していました。避難訓練は、毎年事業計画書の項目に含めているので、それに沿って、確認したり、行動していました。

(聞き手)
 会社の再開時期についてお聞かせ頂けますか。

(鈴木様)
 翌日に、様子を見にきてくれたスタッフが掃除をしてくれました。
花屋を経営しているのですが、スタッフが掃除をしてくれている間に、私は卒業式でオーダーが入っていた幼稚園や保育所などを回りました。
ほとんどの卒業式は中止になってしまいましたが、亡くなった方に供えるための花の需要はありましたので、動ける範囲での行動を再開しました。

(聞き手)
ありがとうございます。次に原田様、お願いいたします。

(原田様) 
備えに関しては、近いうちに宮城県沖地震が来るとは言われていましたし、震災の3日前くらいから大きい地震が何回かありましたので、そろそろ備蓄しなければならないと思っていた矢先でした。

(聞き手)
 原田様の会社は、いつ頃再開されたのでしょうか。

(原田様)
 2、3日後くらいだったと思います。県北地域と全く連絡が着かなくなってしまい、ガソリンも不足し始めていたので、むやみに動く事も出来ませんでした。
3日目頃から連絡が着き始めて、対応をし始めました。

JCの活動と個人的なネットワーク

(聞き手)
 当時の対応や行動で上手くいった事は何でしたか。

(鈴木様)
 JCとしては、自然発生的な流れで、皆さんが全国から善意で物資を送ってくださった事が上手くいった事です。物資は定期的に送られてきましたし、ボランティアで来る方も慣れているので、ピンポイントな指示だけでしっかり自分の仕事をこなしてくださり、とても助けられました。
 
(聞き手)
 現在、塩釜JCのメンバーは何名ほどいらっしゃるのでしょうか。

(鈴木様)
この地区は50人前後です。全国だと3万5千人ほどがいます。

(聞き手)
JCでは、災害時の体制も決めておられるのでしょうか。それとも、各地区で個々に決められるものなのですか。

(鈴木様)
 震災以降には体制を作りましたが、当時はどちらかというと、個人的なネットワークを経由して物資が入ってきていました。

(聞き手)
 塩釜JCで、その振り分けも行っていたのでしょうか。

(鈴木様)
 そうです。個人的な繋がりで持ってきてもらった物資を会社の敷地に集め、そこから各ポイントに振り分けていました。
多賀城市にも持って行きました。多賀城市の区長さんなどとは、担当エリアの者は面識がある場合が大半だったので、その繋がりで様々なオーダーが入り、それに応じて物資の割り振りを決めたのです。

民間団体ならではの地域貢献

(聞き手)
 防災計画や防災マニュアルについてお伺いしたいのですが、塩釜JCでは、そういったものは用意されていましたか。

(今野様)
無かったです。手付かずの状態でした。
ですが、防災・減災セミナーを単発で開くような事はあったので、宮城県沖地震が近々来るという前提のもとに動いた部分はありましたが、活かされたかどうかは何とも言えません。

(聞き手)
 今後の防災対策に関して、何か問題や課題は出てきていますか。

(鈴木様)
 JCでは東日本大震災の後、大規模災害時の行動マニュアルを作成しました。組織の作り方を明記し、各市町村の行政区の避難所とトイレの有無のチェックなどをリストアップ出来るようにしました。
しかし、もしまた津波が来てしまったら、そのデータは使えなくなってしまいます。

(原田様)
 JCは民間団体なので、行政では手の届かない所も細かく回れたのが良かったところではないかと思っています。
給水活動にしても、行政の給水車が来ない地区を回る事も出来ましたので、市民の方たちに対してお役に立てたと思います。
 他に大変だった事として、大量に届く物資の整理がありました。あの時の理事長は途方もなく大変な思いをしていました。
翌年になっても、支援の申し出が色々な団体からきていましたので、そういった部分も大変でした。

(聞き手)
 災害マニュアルに関しては、全国で一律に決められていた内容に沿って動いたということですか。

(原田様)
 そうです。
ですが、例えば災害があったとしても、被災地からあちこちに連絡しても混乱するだけです。
今では一度JCの組織から宮城県に話を持っていき、そこから連絡調整をするなど、連絡網がしっかりしてきました。これから災害が発生した場合には、この連絡網も活かされる事でしょう。

(鈴木様)
 以前に新潟県長岡市で地震があった時に、JC組織においても、どのような支援をするか明確にしたことがありました。
東日本大震災発災前もそのようなスタンスでやっていたのですが、今回は規模が大き過ぎたため、混乱してしまった部分が出てしまいました。
その経験を活かし、専門の委員会といいますか、国で言う省庁のようなものが全国JC組織に立ち上げられ、各地区から代表がそこに出向して対策を考えるようになりました。

ボランティアの需要と希望の調整方法

(聞き手)
 当時の対応で上手くいった事と上手くいかなかった事について、お聞かせください。

(今野様)
 上手くいかなかった事は、避難所への連絡やボランティアの割り振りなどをする際、既に予定が詰まっていて、お受け出来なかった事があったので、情報の交通整理をもっと徹底すべきだと感じました。

(鈴木様)
 3月中は炊き出しボランティアは、あっちこっちに引っ張りだこでしたが、ゴールデンウィークが明けた辺りからはガソリン確保に苦労する事もなくなり、スーパーも再開した所が増えたので、炊き出しボランティアを申し出られても困りました。
しかし、断るのも申し訳なく、受け入れてくれる避難所などを探すのに大変苦労しました。

(聞き手)
 震災後に、組織として防災に関する会議などは開かれましたか。

(鈴木様)
 震災前後ともに開催していません。マニュアルを作って、非常時にはそれを見るように伝える、その程度でした。今となっては、組織作りなども新しくやらなければいけないと思っています。

イベント開催による復興支援

(聞き手)
 これからの多賀城市の復旧、復興に向けて、意見や要望などはございますか。

(鈴木様)
 多賀城市の職員の方との個人的な繋がり支援して頂いた部分も大きかったので、市への意見となると難しいです。助成金の案内などもして頂きました。

(聞き手)
「アラハバキの灯火」など、数多くのイベントを開催して頂いたと聞いていますが、開催の経緯はどのようなものだったのでしょうか。

(鈴木様)
 20年ぐらい前から10年間、JCの先輩方が多賀城政庁跡で薪能を開催していました。
ですが、それが終わってしまうと、多賀城政庁跡に脚光があたらなくなるのではと考え、地域活性化の狙いも兼ねて、2010年10月9日に多賀城政庁跡で「アラハバキの灯火」という、ペットボトルで作られた行燈1373個を灯すイベントを行いました。
これは、多賀城政庁跡近くにある荒脛巾(あらはばき)神社にスポットを当てようと考えて行ったものです。

(今野様)
 その翌年である2011年には、東日本大震災があったので、何も出来そうもなかったのですが、当時の理事長が、被災されて亡くなった方への鎮魂の灯として、また、これからの復興の灯としようと提案し、多賀城政庁跡で10月9日に「万葉復興祭」を行いました。

(聞き手)
実行するに当たって何か苦労した事はありますか。

(鈴木様)
 本来行うはずだった「万葉まつり」が一時休止になったということもあり、代わりとばかりに市からは全面協力を得られました。塩釜JCが主導し、県外のJCや市にバックアップしてもらって進めていたのですが、思い入れのある方からはあらゆる主張が入ってきて、その中で出来る事、出来ない事の調整をぎりぎりまでしたのが苦労した事です。

(聞き手)
その他、数多くの復興イベントをしたと伺っていますが。

(鈴木様)
2011年8月11日には、八幡字六貫田で花火を上げました。
博報堂からお声を掛けて頂いて、「LIGHT UP NIPPON」主催で、岩手・宮城・福島三県の沿岸部10箇所で一斉に花火を打ち上げるというイベントの一環として参加させてもらいました。
 また、道路沿いや仮設住宅には花壇を作りました。JCには色々な業種の方が入会されているのですが、その中でも同業者同士でグループが出来るのです。
私は花屋なので生花・園芸グループに属していて、そこの仲間と一緒に花壇の植栽をし、仮設住宅には一輪挿しをプレゼントして回りました。

地域のリーダーとなる人材の発掘と育成

(聞き手)
 今回の震災を通じて、後世に伝えたい教訓はございますか。

(鈴木様)
 私たちは戦争の悲惨さを語り聞かされてきた世代ですが、震災の経験は、それと似ているような気がしてなりません。
露骨な映像こそ表には出てきませんが、ある程度落ち着いたら、このような有事になったら大変な状況になる事を広める啓蒙活動が必要になってくると思います。そこが教育になります。
 家庭として考えると、家族が離れ離れになった時には被災しにくいポイントを絞って集まったり、指定されている避難所に集まったりといった対策が必要になるでしょう。
 また、映像については見たい人が見られる環境を整えるべきです。
強制的に見せるのはストレスを感じますし、また別の問題が生まれてくることもあります。

(聞き手)
 JCの後輩の方々に伝えておきたい事はございますか。

(鈴木様)
 私たちの場合は精神論が重視されます。
JCに入会すると同時に、先輩から、利他の精神を叩き込まれ、教えられます。
自分を犠牲にしてでも他人のために奉仕するという基本理念があるので、それを受け継いでいく事が大事です。
ただ、組織全体としては継承していると思うのですが、時代背景が今後どうなっていくかはわかりません。そもそも、今、JCに若い方があまり入会してくれないのです。

(聞き手)
 若い方に奉仕の精神が伝わっていると感じられますか。

(鈴木様)
 よくわかりませんが、ボランティアの数は、今は逆に増えてきています。ボランティアは、やる側にしてみれば、もっとも自己満足に直結しやすい行動なのです。
ですが、そこで申し出てくれる人たちが率先して動ける環境が無い事も事実だと思います。
地域のリーダーが少なくなってきたのが響いていると思います。

(聞き手)
 原田様は、どうお考えでしょうか。

(原田様)
 今まで防災を考えながら活動してきた中でこれだけの災害が起こってしまったので、災害は防ぎきれない部分があると思うのです。
そうであれば、発災時にはどのような対応をするかという事を、自分の中でシミュレーションしていく事が大切になります。
先ほども鈴木さんが言っていましたが、家族とすぐには会えなくなるような災害が起きてしまった時に集合場所を決めておくなど、一人ひとりが対策を講じておけば混乱を少なく抑える事が出来ます。
それは会社でも同じ事です。塩釜JCのメンバーにも、全国の他のJCに呼ばれて講演をする人がいるので、そういう事を伝えていく事が大切なのでしょう。
また、率先して動こうと思うのであれば、自ら準備を整えて、日頃からのシミュレーションをきちんとしておくべきだと思います。
例えば、家族の安否確認が出来ない中で作業をしても、気が気で身が入らないのであれば、成果は上がりません。安否確認が出来て、安心した心持ちで活動すれば身も入るので、そのために備えておくべきなのではないでしょうか。

(聞き手)
 今野様は、何を後世に伝えたいとお考えですか。

(今野様)
 お二人がおっしゃった通りだと思うのですが、付け加えて言うならば、独断で判断せず、警報などの情報を真摯に受け止めて対応する事が必要になると思っています。

(聞き手)
 これまでの質問以外の内容で、伝えておきたい事はありますか。

(鈴木様)
 心配なのは、私たちが多賀城市の職員さんたちと築いている関係を、後輩達も同じように作っていけるのかという事です。
今でこそ顔なじみの間柄ですが、同じ組織でも人が変われば、再構築しないといけなくなる部分が出てきます。

(聞き手)
 震災に関わった方たちの中で、年齢や年代の差による違いは感じられるのでしょうか。

(鈴木様)
そのポジション毎に違うので、一概には言えません。
トップで管理している方や現場を見てきた方、それぞれに別の苦労や危険が伴うので、年代よりは立場の差だと思います。
また、市役所に対しては、私たち青年世代とパイプを持ってもらえればありがたく思います。
市の職員さんと仲良くなっても、その方が異動してしまえば別の方が替わりに入ってきます。そういった、人との繋がりまで構築するのは難しい事なので、接点を増やしていけたらと思っています。顔が見える関係にしていくことが、私たちの課題なのです。

(聞き手)
JCと市役所で会議などを開く事はあるのでしょうか。

(今野様)
 多賀城市役所では、例えば万葉まつりの実行委員会の中に市の職員の方が入り、JCの職員と打ち合わせをすることもあります。

(鈴木様)
 塩釜市も同じで、「みなと祭」という共通の実行委員会の中に職員さんが入り、打ち合わせの時には塩釜市役所に出向いて話し合いをします。行政とのコミュニケーションは、今後とも大切になってきます。

(原田様)
 せっかくこうして、行政の方々ともある程度腹を割ってお話出来る関係になってきましたので、それを続けていければありがたいと思います。JCに限った事ではありませんが、行政と民間との連携を様々な場所で作っていければ、それが市民の人たちのためになります。

(今野様)
 今回の震災を、私たちが今後どのように伝えていくのかが課せられた義務だと思っていますので、頑張っていきます。命を守るためにどうすればいいかを、私たちは経験してわかったので、それを伝えていく事が出来れば良いと思っています。